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震災から5週間
さて、震災から5週間が経ちましたが、ボクが言った「各自自分に出来ること」と、「東電の責任を追及していく」という問題ですが、全く報道されていません。
それどころか、自分の責任はどこへやら“節電に協力せよ”という大々的コマーシャルを流し続けています。
原子力安全神話を作り続けた、その人の命を何とも考えていない、企業と国家のあり方を追求するマスメディアさえ、なんと声の小さいことか。とことん原子力安全神話を創り出してきた、そして、それにホイホイ乗っかってきたすべての学者、文化人、政財界人がこぞって“大騒ぎしない方がいい”という論調で自分がこの安全神話に関わったことすら知らん顔です。
2011.5.12発行の別冊宝島1752号「誰も書けなかった日本のタブー」という号でジャーナリストの川端幹人氏が─金と権力で隠される東電の闇─“マスコミ支配の実態と御用メディア&文化人の大罪”というレポートを書いています。ぜひ、一人でも多くの人に読んでもらいたいです。
役者のボクには調べられない多くのことがわかるはずです。ちなみに川端氏は美香さんのご主人です。
東北を目に焼き付けてきました。
携帯でですが、写真を撮ってきました。

全12枚 (さらに…)
いわき市と仙台に行ってきました。
いわき市と仙台をまわって、一昨日帰って参りました。
5軒隣のおうちから、ご厚意で軽のバンを借り、モダンスイマーズ座長の西條君が運転を引き受けてくれ、原田恵子さんも一緒に行ってくれることになり、二台でまずいわき市にある尾形真智子さんの家に向かいました。午前11時ごろ出発、午後4時ごろには着きました。
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孫の春休みで、福島の尾形賢二夫妻は、娘のいわき市の家に来ていて震災に遭われたわけです。
常磐共同火力発電所と6号線の土手にすくわれ、6号線の車道を押し寄せてきた津波は、床下浸水で免れましたが、家の前まで公衆トイレやら魚がはね回ったとのことで、家の周りはヘドロがいっぱいという状態でした。
持参した物資(それほど大げさな物ではありませんが、ボクと妻と、西條君、原田君で揃えられた物)をおろし、家にあげてもらい当日の地震のすごさを聞きました。
台所ではレンジやら食器やらが横に飛び、押し入れの戸がこたつの上に落ちて家中がメチャメチャになったという携帯の写真を見せてもらい、そこから車で非難しようとして車が進まないようす。やっと少し高いところのコンビニの前で一晩、雪降る中、震えながら子ども(小学生と幼稚園児)を励ましながら過ごした夜の話…。
真智子さんの案内で佐糖町、岩間町、小浜町を見てきました。全滅です。砂浜が消え、堤防が砕け飛び、テトラポットは陸に上り、墓地はすべて破壊され、木は倒れ、家の下に車が入り、ただ言葉もなく目に焼き付けました。
それから真智子さんの家の前だけ少し、ヘドロを片付け、ボク等は野宿するつもりで行ったのですが、芝居を観に来てくれるときはすぐ帰るのでゆっくり話をしたこともないし、昔の話もしたいということで、ご好意に甘えることにし、大いに飲み語り合いました。ご主人は銀行マンで、被災者とのお金の業務で19時ごろ帰ってこられ、子どもが20時に寝てから、これまた話が盛り上がりました。
福島は、震災、津波、原発、と風評被害でものすごく苦しんでいます。昨年の秋の米までが福島産はもう売れないということで返品されてきている有様です。
賢二さんも定年して2,3年。じっくり野菜を作っていたのですが途方に暮れております。
関東圏の電力を支えるために、福島では全く使わない電力のために、これほどひどい目に遭っております。
日米の関係を支えるために戦後一貫して犠牲になり、今もそれを強いられてる沖縄─今の福島は沖縄です。
ボク達はもう一度根本的にこのことを考えましょう。
1960年代の米ソ核実験のころ、日本人が浴びていた放射線量は今の何百倍です。
東京電力をとことん突き詰めることと、もう一方で福島の農作物、畜産物、水産物、その他の品物をぜったいに差別しないことしか福島を救う、いや、日本の復興はあり得ません。
また続きを。
仙台へ
昨日またM7.4の余震が起こり、せっかく尾形さん一家とお話しでき、少しは慰められたかと、このブログを書いていたら、これでもか…です。尾形さん一家が、玄関に家族全員分のリュックサックを置いて、いつでも次は逃げ出せるようにしてた姿があまりにも切実で、何とかこれ以上被災者をいじめないでと願うばかりです。
さて、5日の朝。尾形さん一家と記念写真を撮り、ボク達は仙台へ向かいました。
東北道はスムーズに走行でき、仙台の青葉区にある夏季ちゃんの勤める保育園に、昼過ぎに着きました。彼女はちょうどドングリ組の園児をみているところでした。
14才のとき、一緒にワークショップの舞台に立ち泣いてしまった夏季ちゃんは、立派な相馬先生になっていました。
子ども達に、おやつ、シャボン玉、折り紙、ノート、お菓子、そして原田君のお兄様がプレゼントしてくださった絵本、紙おむつ等を差し入れることが出来ました。
園長先生も職員の方も大変喜んでくれてホッとしました。
昨夜の地震後も連絡が取れ、大丈夫と言うことで少しホッとしております。
強行軍だったので、帰りは猪苗代湖畔のロッジに一泊。一人2,500円で冷暖房、風呂、ガス、水道、レンジ、冷蔵庫、食器すべて揃った素敵なところで、三人で焼きそば、サラダ、おでん等を食べ、今回の行動と原発と福島について夜中まで話し合いました。
翌6日、車を洗ったり部屋の整理をしたり、米を炊き飯を食い、昼のおにぎりを握り、10時に出発。14時半過ぎに帰って参りました。
とにかく、無事の姿で会えたことがいちばんでした。
そして、この津波の恐ろしさをこの目に焼き付けられたこと。
さらに、これから何年かかるかしれない原発との(その地域の人を置き去りにしない)闘いに備えたいと思います。
ひとまず、ボクのいわき仙台紀行を終わります。
P.S.芝居が終わったら仕事がありません。(植木屋の方ですが)
さあ、明日から何か探さねば…!
福島と仙台へ行ってきます
お久しぶりです。
3月27日に「カラスの国」が終わってから、自分なりに考えてみて、家の蛍光灯はひとつだけ。暖房は妻が帰って来たときだけ。風呂も一週間入らないで、野菜中心に食事を組み立て(植木屋の仕事もなかったので)やってみました。そして、いろいろな人にあたり、知人がいる福島と仙台まで運転してくれる人を探しましたところ、モダンスイマーズの座長・西條君が「僕がご一緒しましょう」と言ってくれました。
ボクと妻で、集められる生活物資をこの一週間で集め、今日お昼にまずいわき市へ出発できることとなりました。昨日、原田恵子ちゃんもお兄さんの車を借り、同行してくれることとなり、かなりの量を積めることとなりました。早船さんからも寝袋とカップ麺を1ケースいただきました。
3人分の食料と寝る車を確保できましたので、何とか少し地元のお手伝いが出来ればと思っております。
帰ってきたらまた報告します。
知人の無事を確認しました
さて本日は、三田村組を何度も観に来てくれた、仙台と福島のお客様の無事とメッセージをお伝えします。
14年前、MODEで「私が子どもだったころ」の全国ツアーをしたときのワークショップで「父と子」のシーンでボクの相手役をした当時14才だった相馬夏季ちゃんと、尾形真智子ちゃんです。
共に28才になり、夏季ちゃんは仙台で保育士をしています。15日の夜携帯がつながり無事を確認しました。その後はまだ連絡が取れません。
そして真智子ちゃんは昨日、連絡が取れました。
彼女は二児の母になっていますが、いわき市にて津波に追いかけられながら逃げ切り、今は福島市岡部のお父さん宅で避難生活をしています。実家も1階はメチャメチャで、皆で二階を片付けてなんとか生活していますが、とにかくガソリンがなくしかもこの地区は情報が不足していて大変だそうです。とはいえ、元気に生きていることを皆に伝えて欲しいとのこと。お父さんと真智子ちゃんと30分くらいお話しできました。連絡がつき、話ができたことをなによりも喜んでくれました。
ボクも極力電気を使わず頑張っておりますが、今日のニュースで日赤の募金が400億を越えて集まっているのに、自治体分配が決まらず、お金を渡す準備に取りかかれないなどとバカなことを言っています。日本人はこれからだって、他人のためにどんどんお金も物資も人も出てきます。
政府みたいな事を言っていないで出せるところにどんどん金を使うべきだ!!!
でなければ、少ないギャラから出した金がムダになる。とりあえず原発の作業員に、三食喰わすことにその金を使ってくれ!
毎日イライラしますが、この二つの家族の無事が嬉しい。
そしてこのブログを見て、この二つの家族に繋がりのある人が共に喜んでくれることを祈っています!




